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2006年11月 8日 (水)

核武装の議論の自由はない・再論

 前に書いた同じタイトルの記事(10月21日)にコメントを付けてくれた方がいたので、また考えてみました。

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 まず、事実の経過を僕なりにまとめてみます。

 10月15日になされた中川氏のそもそもの発言は、北朝鮮の核武装に対して、日本の核武装という選択肢があり、その選択肢の是非の議論をしなければならない、というものでした。つまり、日本の核武装の検討を始めなければいけないというものでした。

 それに対して、日本の核武装という選択肢は愚劣な選択肢で検討の余地などない、という反論が当然出ました(ここまでは僕の10月17日の記事参照)。

 そこで、さらにこれに対して、麻生氏や安倍氏・中川氏などが、言論の自由があるから検討はしてよい・すべきだと反論した、というのが事の経過です(僕の10月21日の記事参照)。

 こうやって経過を見てみると明らかなように、この問題は、「日本政府による日本の核武装という軍事政策の採用」の余地があるか否かの対立だ、と言うべきでしょう。

 そして、その余地があると主張する中川氏らは、その根拠として「言論の自由」を持ち出してきたのです。

 僕は、「言論の自由」を根拠とすることには2つの問題点があると考えました。1つは、「言論の自由」を持ち出すのは筋違いだということです。これが10月21日の記事の重点です。もう1つは、日本の核武装の検討という行動は、単なる言論ではないということです。このことは同じ10月21日の記事でも触れましたが、10月26日の記事はこの点に重点を置いて書いたつもりです。今回はこの2つめのことについてもう少し書いておきます。

 たとえば、僕がこのブログで「日本の核武装を検討すべきだ」と書いたとします。それに賛成する人もいるでしょうし、反対する人もいるでしょう。いろんな人がいろんなことを言って議論になるかもしれません。しかし、ブッシュ大統領やライス国務長官は何も言わないでしょうし、中国政府や韓国政府も何も言わないし、何も行動しないでしょう。当たり前です。

 しかし、中川氏らの発言に対しては、ブッシュ大統領やライス国務長官を始めとして多くの政治家・政府がいろんな発言・行動をしました。日本の核武装は必要ない・有害だといった発言・行動です。それは今も続いています。また一方で、石原慎太郎都知事は、中川氏の発言が「非常に大きな意味を持った」と述べて外交に好影響を与えたと評価し、また核武装発言は「いろんな形で中国の動きを規制するだろう」と述べて、中川氏の発言を支持しました(11月2日)。

 同じ発言なのになぜ違う反応になるのでしょうか。それは、外形上は同じ発言であっても、実態は全く異なるものだからです。僕の発言は単なる一個人の意見の表明にすぎませんが、中川氏らの発言は「日本政府による日本の核武装という軍事政策の採用」に向けた、日本の政治家による政治行動の第1歩という実態を持つからです。彼らの発言は、こういう内容の政治行動という実態を持つからこそ、それに対抗したり支持したりするさまざまな政治行動が出てくるのです。上で書いた石原都知事に至っては、中川氏の発言が国際的に大きな影響力をもつ政治行動であることを正面から認めています。

 ところが、中川氏らは「言論の自由」を持ち出して自分たちの行動を正当化しています。彼らの発言が僕の発言と同じ実態のものであるならその通りでしょう。しかし、彼らの発言は、上に述べた通り、僕の発言とは明確に異なる実態を持つものです。なのに僕の発言と同じ実態を持つものとして扱おうとすることは、その実態を覆い隠そうとするものと言えるでしょう。すなわち、彼ら自身の発言の実態という事実を偽るものと言うべきです。

 事実を偽らなければその正当性を主張できない政治行動とは一体何なのでしょうか。それは、もちろん、明白に誤った政治行動だと言うほかありません。もともと誤った政治行動だからこそ、事実を偽る以外に正当性を主張しようがないのです。従って、中川氏らの事実を偽るための言い方に則って言うなら、「核武装の議論の自由はない」というのが事実の正確な把握に基づく当然の結論だと思います。

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政治2(日本外交3-核兵器)」カテゴリの記事

コメント

たいへん興味深く読ませていただきました。
もちろん主旨には大いに賛同します。ただやはり「議論の自由はない」というのは、中川氏らの言い方に即した意図的な表現であることは理解していますが、やはりいささかセンセーショナルかと...
たとえば靖国参拝についても、前首相らが「思想信条・信教の自由」を持ち出したのに対し、われわれは「思想信条や信教の自由はない」という言い方よりは、「思想信条・信教の自由はあるが、しかしこれは政治家としての政治的行為なのだから、違憲であり許されない。どうしても参拝したいなら政治家を辞職してから」という言い方をすると思います。
ですからここはヴォルテールにならって「あなたの意見には反対だが、それを言う権利は守る」とした上で、しかし個人的発言ではなく政治家としての政治的行為なのですから、既に各野党も辞任を要求している通り、しっかりその政治責任を取って即刻辞任していただくことだと思います。

それはそうと、先日、61年前に広島で被爆された70代後半の方の体験を聞いてきました。核兵器は本当にむごいものだと、つくづく再認識しました。
麻生氏や中川氏も人の子であるならば、その70代の方の目の前で、政治家として、果たして面と向かって同じ発言ができるでしょうか?---少なくとも私には想像できません。

 Dさん、コメントをありがとうございます。

 やっぱりDさんもそう思われますか。

 こういう題名にしたのは、彼らの発言には、議論と言いながら正面からの議論を回避しようという不真面目さが感じられ、その姿勢への怒りがあることは確かです。

 ただ、怒りだけからわざとセンセーショナルな言い方をしているのかというと、それだけではなくて、彼らの行為につき「信教の自由」なり「言論の自由」なりを少しでも持ち出すことが、本当に理論として成り立ちうるのかという点に、もやもやとした疑問を感じざるをえません。そのもやもやをくっきりさせようとして考えているつもりなのですが、まだまだ不十分なのでしょう。でも、どうもそのヴォルテールの言葉が当てはまる場合ではないような気がしてならないんですよ。もう少し考えさせてください。

 でも、Dさんおっしゃる通り、一番大事なポイントは、核兵器が何をもたらすものなのか、それは安全などではなく、どうしようもなく酷いものなのだという事実を正確に認識することですよね。正確な事実認識がないまま核兵器にしろ戦争にしろ論ずるから愚かな考えが声高に論じられたり、実行されたりするんですよね。

↑早速どうもありがとうございます。
確かに、NHK番組への事前介入、NHKへの放送命令、そして極め付けが今回のタウンミーティングでの教育基本法改定賛成の「発言依頼」と、これはもう、ヴォルテールのような牧歌的な意味での「言論の自由」ばかり言っていては、こっちが先に言論的に圧殺されてしまいかねない(いや既に相当程度されてしまっているかもしれない)という、深刻な事態ですよね。私も「もやもやした疑念」を共有しています。ではでは...

 Dさん、またまたありがとうございます。

 すぐにいい考えに行き着かないとしても、引っかかるものは引っかかるものとして大事にしていきたいと思います。

 これからもよろしくお願いします。

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